箱の中身はなんじゃろな

人間のオスとメスが交尾して生まれるのが人間。

 

人間って何ですか?という質問の最もシンプルな答えは、こうだと思う。

 

人間界は意外と複雑で100人いれば100通りの世界があるようだけど、少なくとも私が生きる世界では、人間は神の子なんかじゃちっともない。

 

「蛙の子は蛙」の言葉のまんま、猫の子は猫だしゾウの子はゾウだし人間の子は人間なのだ。

 

とはいえ人間は、ただ「人の子」として生まれただけでは人間でいられないことが多々あるらしい。

 

「店に立てないなら生きてる意味がないじゃない」

 

が口癖だった高齢のクラブママは、コロナでお店を開けられなくなると本当に一気に老い衰え、周囲の「店をたたもう」「病院に行こう」という声を全て無視して、一人穴の開いた羽毛布団にくるまってそこかしこに羽をまき散らしながら、まるで天使のように死んでいた。

 

「正常な頭のまま人間として死にたい」

 

と笑って言った同じ施設で育った知人は、がん発覚から1年で治療をやめ、すごくしんどい思いをしながらも所有していたエロ漫画を処分したり今さら鬼滅の刃にハマってみたり故郷の食べ物を食べて感動したりする日々を2カ月ほど送り、最後はそっと死んだという。

 

人間をやるには、人の子として生まれるだけでなく矜持が保てないといけないのかもしれない。

 

誰かに心を開いて共感し合うこと

娯楽を享受して頭を空っぽにすること

自分の思想の世界に浸って楽しむこと

誰かの役に立っていると実感すること

おいしいものを食べ、よく眠り、自分の足で歩くこと

 

こんな何気ない日常のあれこれで緻密に組み上げられている「人としてのプライド」が崩れると、人間でいることをやめてしまう人間もいる。

 

矜持を守って命を縮める生き方に、言えることは何もない。

 

世の中には「どんな姿や状態でも生きていてほしかった」「助かる可能性があったのならそちらを選んでほしかった」と言う人もいて、別にそんな考えを否定する気はないけれど、だからといって選択した本人を否定するような気持ちになるので同意する気は起こらない。

 

しかしながら私だって一抹の寂しさや選択した本人の心中を想像する力はあるわけで、手放しで「死ねてよかったじゃん!」とは言えないのだ。

 

だから、やるせない気持ちを抱えたまま大人しく息をして、ときどき「寂しいなあ」と思って、でも周囲にはへらりと笑って見せたりして、私は今日もひっそり人間を営んでいる。