まじむり症候群

生きてれば誰だって、あーつかれたーまじむりーしにてえー、みたいな気分になる日があると思う。そしてそんな気分を私は、まじむり症候群と呼ぶ。

キャバクラ嬢だったある日の私は、それはそれは重度なまじむり症候群を発症していた。

 

そのため「一言だって人と会話できる気がしない、まじむり」という意味不明な理由でタクシーを使えず、もはやあと数時間で明けるであろう夜道をえっちらおっちら徒歩で帰宅する羽目になったのだ。所要時間の想定、約20分。

 

そんな私に奇声が降ってきたのは、繁華街を抜けてすぐ、ちょっと住居用マンションも増え始めてきたなというあたりでのこと。

 

何て言っているのかはよくわからないけれど、空から若い女の声がする。

 

いわゆる天のお告げのようなシチュエーションに「ついに頭がイカれたか?」と一瞬自分を疑ったが、疲れやメンブレを理由に易々と天界を信じられるほど心がきれいな私ではない。

 

カラコンのせいでカッピカピになった目と、酒のせいでぱつんぱつんになったまぶた、本当は1ミリだって動かしたくない首をゆるく持ち上げながら、私は上を見やった。

 

声の主は、神でも天使でも仏でもなく、やっぱりただの人間だった。

 

私からだいたい100メートルくらい先にあるマンション、何階かはわからないけど結構な高さの道に面したベランダから身を乗り出して、女がむせび泣いている。

 

こんな時間にベランダで発狂するなんて同業かホス狂いかな、彼女も今、絶賛まじむり症候群なんだろうな、などと勝手に決めつけながら私が視線を地面に戻したとき、女は今までとは比べ物にならない爆音ボリュームの声を出した。

 

目が乾くとかまぶたが重いとか首がだるいとか全部がむりとか、そんなことを考える余裕はない。

 

人は驚くと、状況を把握しようと考えるよりも先に対象物に目を向けるのだから。


そして私の目はほんの一瞬、だけど絶対、絶叫しながら空を落ちる女を捉えてしまった。

 

どんごん!ばりばり!みたいな形容し難い音と共に、約100メートル先にあったマンションの植え込みに女が頭から突っ込む。

 

女の一世一代の大絶叫を聞きつけた人が数人、繁華街のほうからやってきて、植え込みから生える女の足に向かって「うわ!見て!やばくね!?」と声を弾ませた。

 

その声を聞いた瞬間、私は急いで元きた道を猛ダッシュ。走れ走れ走れ。なぜ走るのかと問われれば「あー、たぶん、私ってメロスなんじゃない?」としか答えられないけどとにかく走れ。酒のせいかパニックのせいか運動音痴が走ったからか、道の途中で一度吐いた。

 

えっちらおっちら歩いた努力を全て無駄にして、繁華街まで戻ってきてしまった私は自分が働く店に戻って少し休もうと思った………が、ちょうどその時期は店長とアイちゃんがデキてる時期で、今店に戻るとさらに最悪な現場を目撃する予感がしてやめた。

 

仕方なく24時間営業の喫茶店に入ってやっと一息つく。既に目は冴えているし元来コーヒーはあまり得意ではないので、確か紅茶を頼んだ。

 

もう吐かないよう紅茶をちびちびやっていると、植え込みに突っ込んだことであの女は今も元気に生きてるかもしれないという気分になってきたので、絶対そうに違いないと思い込むことにした。

 

それが幸せに直結しないことや生き長らえる正当な理由にならないことは、まじむり症候群じゃ気づけない。

 

ちなみに私は飛び降りに縁があり、この他にも何度か現場をかすっているのですが、それはいつかまた。